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動物からもらった人間の寿命
テレビから流れてくる落語家の「神様は、老人の目と耳を遠くした。バランスをとるためにトイレを近くした。掃除は天井から、老化は足下から…。」と次々に出てくるコミカルな表現の中にも、年長者に対する敬意と愛情を感じた。うまいことを言うものだと思いながら、時代と共にずいぶん寿命が延びたものだと思った。平成10年、百歳以上の人口が一万人を越えた。実に一万人に一人が百歳という事になる。最近、こんなおもしろい寿命の話を聞いた。
昔、人の寿命は30年だった。それが、最近では75歳はちっとも珍しくなくなった。神様が30年の寿命を平等に与えてあげようと、まず馬を呼んだ。「30年の寿命をあげよう。」と言うと、「人間に尻をたたかれながら働かされ、30年なんて辛すぎます。
10年で結構です。」と断った。次に犬を呼び話をすると、「門番をして30年なんていやです。15年で結構。」と断った。次に猿を呼び聞くと、「木の上で、30年も暮らすのは大変です。20年も生きればもう充分です。」と言った。人間を呼び30年の寿命の話をすると、「30年なんてとんでもない。短か過ぎます。」と欲張った。それで神様は、それぞれの残りの、馬の20年、犬の15年、猿の10年を人間に与えた。「もっともっと。」と言った人間に、神様は、「その後は勝手にしろ。」と言ったそうだ。そういった訳で、人間の30歳からの20年は家族の為にせっせせっせと馬車馬のように働き、家を建てるとなれば馬のように稼げ稼げと尻を叩かれ、50歳からの15年は番犬のごとく家を守り、65歳からの10年は子供も大きくなり、猿の夫婦ように仲良く思いやりを持って暮らすということだ。ひょっとして、定年離婚が増えているのは、神様の猿の話をとばして聞いてしまったせいだろうか。
平成10年11月
変 革
一昨年来マスメディアを賑わしている借金・信用組合に関西銀行の経営破綻による金融不安やバブル健在の余波が続く中、政治家と官僚の倫理観の軽視につながり金権に支配される傾向に歯止めをかけることができず、官僚の不祥事はついに国民の信頼を損なうまでに至ったと思う。
「初めから悪を持って職に就く者はいないと思う。何かが違うと思いながらも、肩書きを持ったとき倫理観が慣習に飲み込まれ本来の職務を違えてしまうのであろう。しかし昨年も同様に拓銀・山一等の不祥事による金融不安は拡大の一途をたどるばかりで政府による経済政策の遅れと行政改革の先行の見直しすらたっていないのは状態を見るとき、政治家の責任が大きくその力量が問われる。自分の権利の拡大がないかぎり変革を望まない人たちが、まして自分たちにとって不利益と感じる変革を阻止しようとする働きをする事は現実です。従来の慣例に依存し、その弊害も省みないのは、どうでしょうか。もたれ合いの中でやっていくことは、対立という発想が起こらないことからいっても楽であり、居心地はよいことです。変えるとか変えないとか言う以前に、変えようと言う意志がない人達と対することは、民主主義とはいえ多数決の中では大変厳しい状況を強いられます。今二十一世紀に向け、襟を正す勇気が必要であり、国が正しくあるためには指導者が正しくあらねばならぬごく単純な結論に要約される。
平成11年1月
『理由の後先』
最近、政治家の言動、行動に安心感を感じないような気がする。どうしてこう言ったのか、どうしてやったのかと言うよりも、それをどうにか正当化するために後から考えついた理由が多いような気がする。立場を考えずに行動し、都合で理由が変わっていくような気がする。根本に戻って考えれば、それが正しいかどうかは、はっきりしてくると思う。
選挙の党公認にしても全くそうだ。今まで、公認しておきながら、自公の数あわせのために、比例まわってくれだの、公認はやれないだのとナンセンスである。比例にまわったら、前回まで国民に意思によって、選ばれた議員が、順位によっては、当選できるかどうかも約束されないのである。一度公認をしたものを取り消すと言うことは、自民党の公認を党自身で、軽いものにしているということに気付かないのか。じっくりと自民党に必要な人材かどうかを審議せずして公認を出していることを証明しているようなものだ。党の都合にあわないと「除名」の言葉を振りかざし脅す割には、けっこう自民党の公認とは、軽いものだった。
政党とは、政策に関して、同じ方向を向いている者同士が集まり結成されているはずだが、どうしたものか。数あわせ、ご機嫌取りで公認の有無を決めるのでは、政党の意味がなくなってしまう。それこそ、比例代表制での選挙は、信用できなくなってしまう。民主主義さえ壊れてしまう。
議員は、国民の代表であるということをわすれてしまったのだろうか。
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