|
笠 地 蔵
朝起きると雪が降っていた、今年は東京に11年ぶりの12月初旬の積雪となった 。バブル崩壊後、先の見えない経済状況、戦後失われた10年と言われ、尚続く不況。暮れになると、母親から聞かされた笠地蔵の話を思い出す。
貧しい老夫婦が笠を編み、正月用品を買う為、大晦日にお爺さんが売りに出るが一つも売れない。帰り道、頭に雪が積もったお地蔵さんを見て「こんなひどい雪の夜に、寒かろう。寒かろう…」といいながら、お地蔵さんの頭に笠をかぶせ、6人目のお地蔵さんには自分の笠をとってかぶせて家に帰った。その話をお婆さんにすると「それは良いことをした。私たちには家もあるし、笠を作れる丈夫な体がありますから…。お正月の神様はお供えがなくともおいで下さる。」と二人は熱いお湯を飲み、薄い布団にくるまって眠りについた。その夜、お地蔵さんが恩返しに米やお餅や着物を運んできて、二人は幸せにという話だ。雪の中で笠を売り歩いてきたお爺さんの身を気遣い、お爺さんは、こうすることがお婆さんも喜びなさると信じていたから、自然にできた行為だと思う。そこには貧しくてもいたわり合っている夫婦の強い絆が感じられる。だからこそ、お地蔵さんもこの老夫婦に幸せを運んでくれたのだろう。もしかしたら、本当は米もお餅も着物も届かなかったのかも知れない。それと同じぐらい心が幸せになったと言うことかも…『思いをかければ、かけられる』大切なことを教えてくれているような気がする。今の世の中、こんな綺麗事だけでは生きて行けないかも知れない。ただ、最悪の経済の中、失業者も増え続け、自殺者があとを絶たない時代だからこそ、せめて『笠地蔵』のお爺さん、お婆さんの生き方に心和ませ、豊かな心で苦境を乗り越えてほしいと思う。
平成14年12月
鬼 子 母 の 涙
公園といえば、子供達の元気な声が飛び交うの世界を連想したものだか、昨今は、『公園デビュー』などという言葉が誕生するほど、公園の存在は様変わりしてしまったのだろうか。こんな言葉を聞くと、人との出会い触れ合いは、かなりの心労が伴うものになってしまったような気がする。幼児にとって、他人との試練を経験し、人格を形成する幼児の『社会デビュー』と言うのならまだしも、母親同士の『心のぶつかり合い』を生む試練の場となっているとは……。そんな現代社会が生んでしまった事件かも知れないが、同じ年の子供を持つ母親が『心のぶつかり合い』から、相手の母親の大切な、罪もない二歳の女の子の命を首を絞め奪ってしまった。
この事件後、仏典にある『鬼子母神』の話が、我が家で話題になった。鬼子母には多数の子がいたが、性質邪悪で他人の子を奪っては食べていた。仏様はそんな鬼子母の子を一人お隠しになった。鬼子母は狂乱し、子供を探し回り、嘆き悲んだ。仏様は、鬼子母に「お前の食べた子供の親の悲嘆と同じだ。」と諭され、鬼子母は人の悲しみを知り、子供達を守る神になったと云う話だが、『人の思いを我が思い』として受け止めることの難しさを感じる。『心のぶつかり合い』という言葉が、とても重く響く。現代社会が抱えている問題、次々に起こる衝撃的な事件の根底にあるものではないだろうか。
(平成11年12月)
長 靴 を は い た 猫
妻が子供に『長靴をはいた猫』を読んであげた。読み終わると、子供の口からでた言葉に私は驚いた。「これは、悪い猫の話だね。」と言うのである。今まで私は、この話を、父親が亡くなり、長男が粉ひき小屋、次男がロバ、そして三男が残ったたった一匹の猫をもらい、その猫の働きで、三男が幸せになるラッキーな話とばかり思っていた。思わず子供の言葉を聞いた私は、童話の本を改めて読み直してしまった。確かに、三男のわずかな金貨で長靴を買わせ、 公爵を嘘に嘘を重ねだまし、最後には悪者の城を乗っ取り、公爵の娘と結婚させてしまうのである。大人の私から見れば、根回しと知恵を使い、のし上がって行くだけのことで、人を傷つけたり陥れたりせず、最後に悪人まで退治してしまうのだから、なかなかのやり手の猫として称讃する事はあっても、悪い猫とは思わない。子供の純真さにはっとさせられた。
大人の社会では、このようなことは日常茶飯事である。時に、社会の中でのし上がっていく為には、『長靴をはいた猫』のごとく振る舞えることも必要なのかも知れない。しかしそれは、「悪人」にもなり得るのである。また、そう思う心も忘れてはならないと思う。その思いを忘れ、勝手に常識範囲を広げ、驕り高ぶり、自分の権力と利益に走った人と集団が、不祥事を起こし信頼を損ねた社会を作るのであろう。政治家も、官僚も、財界人も含め、指導的立場にある人達が、国を正しく導くには、自ら身をたださなければならないのだと思う。
いったい『長靴をはいた猫』は、「良い猫」なのか、「悪い猫」なのか答えを出すのは難しい。
平成11年1月
ページの先頭に戻る
|